Session: 茅原拓朗

茅原拓朗 x wowlab

PROLOGUE
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感覚の背後に潜むもの

私たちは日常の生活の中で「感じる」事を、あらためて意識する事はありません。
なぜならそれらのほとんどは無意識に心の中に入ってくるからです。
柔らかそうなもの、強そうなもの、奥行き感、そうした様々な感覚は、理由も無く理解できてしまいます。

しかし、私たちが「美しい」と感じる時、実際には脳の中で何かが起こっているはずですし、そうした美しいものを記憶に留めるのも、脳の仕事であることは間違いありません。
こうした脳の働きを研究しているのが「認知科学」と呼ばれる学問です。
見たり聞いたりしているとき、脳ではどんなことが起こっているのでしょうか。

今回は仙台クリエイティブ・クラスター・コンソーシアムの主催するイベント「OCCUR2009」の関連企画として、知覚心理学を研究している茅原拓朗氏を迎えて、感覚における様々なトピックスを紹介していただくと同時に、ビジュアルデザインと知覚心理学の関連性についても伺いました。

また、このディスカッションの内容は同イベントで展示される作品「工場と遊園地」における表現を考える上でも、重要なインスピレーションの源にもなっています。

茅原拓朗

1968年東京生まれ。博士(心理学)。 宮城大学事業構想学部デザイン情報学科准教授。
専門の知覚・認知心理学をツールに、「目カメラワークショップ」(インターコミュニケーションセンター)など、<発見の普及活動>に取り組んでいる。

kayahara
INTERVIEW
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世界とのインタラクションの研究

wowlab
まずお聞きしたいのは、知覚心理学とはどのような学問なのでしょうか。

茅原
人間が見たり聞いたりする現象とそれを支えるメカニズムを研究しています。といっても、一般にはなかなか理解してもらえなくて、解剖学とか生理学とか基礎医学のようなものだと思われることが多いです。 もちろん医学的なアプローチも含まれているのですが、なにより我々自身の知覚体験という現象を対象にしている点が他の脳科学あるいは認知科学分野とは異なる点です。なので、いわゆる五感すべてが研究対象になるのですが、さらに身体を使って世界にどのように働きかけているかということも対象としていますので、全体としては、環境に対する入出力系の研究をしている、とも、さらには世界とのインタラクションの研究をしている、とも言えると思います。

wowlab
なるほど。五感全部ですか。とても範囲が広いですね。

茅原
単純に「見る」ことだけを取り上げても広大な未知の領域が広がっています。ほとんど何も分かっていないといってよいのです。でも、そんなワクワクするような世界がまさに私たちの体験の中に広がっていることがなかなか実感してもらえません。

もちろん自分の説明の拙さもあるんですけど、なんであまり知覚心理学の問題が理解してもらえないのか、僕はずっと考えてきて、今はある一つの答えを持っています。それは、私たちが「見えてしまう」からだ、ということです。

wowlab
見えてしまう・・ですか。確かに「見る」という行為を意識はしていないですね。

茅原
そうなんです。一般に健常者は、「見る」ということについて理解したり訓練したりしなくても、見えてしまいます。本当は、「見る」ということの背後には、進化の過程や、学習や成長の過程、脳の膨大な処理があって「見ること」を支えているのですが、でもそれらは全て無意識的なものなので、それに気づかない、いや、気づく事がが出来ないんです。だから「見ること」について研究しています、と言ってもピンと来てもらえないんだと思います。

wowlab
見えているから、それが当然の事だと思い込んでいるわけですね。

茅原
はい。機能しているが故の不可視性というか、空気のようなものだと思います。でも私たちの日常的な体験の中にも、注意深く観察すると、「なぜ?」と思える、面白い現象はたくさんあります。例えば、止まった電車に乗っていて、隣の電車が動いたときに、自分の電車が動いたように感じたことはありませんか?

wowlab
あります。電車でも車でもありますね。あれは不思議な感覚です。

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人間には速度センサーが備わっていない

茅原
実は人間には、速度センサーが備わっていないんです。耳の奥に加速度センサーはついているのですが、速度そのものを感じるセンサーがない。だから速度の変化は知ることが出来ても、同じ速度で移動していることは直接は知ることが出来ない。

wowlab
え、そうなんですか? それが電車の移動の錯覚に関係している?

茅原
はい。速度そのものをセンスすることができないかわりに、実は、人間は移動していることを「目」で判断しているんです。電車にのっているときに窓から外に目をやると、風景がどんどん流れていきますね。あの一定方向の映像の流れはオプティカルフロー(光流動)と呼ばれるのですが、このオプティカルフローを手がかり情報として、私たちは私たちがどのくらいの速度でどちらに移動しているかを判断しているんです。だから、隣の電車が動いているのを見たとき、自分が移動しているように感じてしまうのですね。

面白いのは、映像の中で動いている部分は通常、対象の動きを示していますから、オプティカルフローによって「世界が動いている」とも判断できるはずなのですが、多くの場合そのようには判断されずに、自分の動きとして知覚されることです。実は映像の中には、世界についての情報だけじゃなく、自分についての情報も含まれているのです。

wowlab
ということは一種の画像解析によって、移動していることを判断するということですね。面白いですね。コンピューターグラフィックスの技術で「マッチムーブ」というものがあります。これは撮影した映像を解析して、カメラの移動量や空間の立体データを計算するものなのですが、同じようなことが脳内で起こっていると。

茅原
そうですね。画像解析という点で同じだと思います。しかも単なる錯覚としてかたづけられないことは、そのような感覚が生じるだけではなくて、体全体が一種の「移動モード」になることからも分かります。オプティカルフローを知覚すると、私たちは身体の重心を調整して、移動に対して身構えるんです。ですから、視野の大部分を覆えるような大きなスクリーンや没入型のVR空間でオプティカルフローを見せると、まだ身体制御が完成されていない子どもなどでは、パタンと倒れてしまうことさえあります。頭では映像だということが分かっていても、脳にとってオプティカルフローは移動を示しているので、無意識レベルの制御で体が反応してしまうんですね。

wowlab
ええー。面白い。でもちょっと危ない実験ですね!

茅原
パタンと倒すにはどういう映像が効果的かも分かっていますよ。ウフフ・・まあそれは応用というか、副産物に過ぎませんが(笑)、このように、知覚心理学では私たちの誰もが体験している知覚体験を現象として観察や実験をおこなって、人間がどのような方法で世界を捉え、また、どのように世界に対して働きかけているかを調べています。

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脳は変化を捉える

茅原
視覚世界は豊かですよね。空間的な次元だけではなくて、色とか動き、それに意味など様々な情報で満たされている。ではこの豊かな視覚世界を我々はどのようにして捉えているか?と考えていくと、網膜像につきあたります。この豊かな視覚世界の材料になっているのは、網膜に映った小さな像です。それだけなのです。しかも人間の目は光学系としてとらえたときも、CCDのような光電装置と比較したときも、とても精度が悪いんです。

wowlab
精度が悪いんですか? てっきり、ものすごく高精度だと思っていました。

茅原
誰でも知っている身近な精度の指標として「視力」がありますが、視力検査で測定された視力どおり見えているのは、実は、視野中心のうち視野角にして直径6度程度の範囲に過ぎません。視野角6度というのは、腕を伸ばしたときのグーの大きさくらいの領域で、その縁の付近では視力は半分くらいになってしまいます。さらにすごいことに、カラーで見ているのも視野の中心部だけです。したがって、私たちが日常的に体験しているフルカラーで美しい視覚世界を構成するために目や脳が「何かしている」ことになりますが、その「何か」の一つがサッケードと呼ばれる高速の眼球運動によるスキャニングです。

wowlab
視野の中を精度の高い視野中心部で少しずつスキャンして、全体をつなぎ合わせているということですか?

茅原
そうです。ですからそもそも今見えているシーンは、同時的なものではないんです。一挙に捉えたわけではなくて、部分毎に時間差があるんですよ。

wowlab
そうなんですか!ということは、見えている全体像が部分ごとに、少しずつ更新されていくような感じでしょうか?

茅原
脳がつなぎ合わせて更新しているんです。しかも人間の知覚システムというのは、変化を捉えることを前提とした仕組みになっていますから、全体をまんべんなくとらえるのではなく、変化している部分だけをとらえようとするんですね。それどころか、逆に、変化のないものは「見ることができない」と言っても過言ではありません。

wowlab
という事は、例えば、動かないものよりも、動いているものに無意識に注意を払うという事ですね。

茅原
そうですね。昔、新聞の日曜版などにあった「まちがいさがし」は、基本的には変化を「動き」としてしかとらえられない我々の視覚システムを逆手にとったエンタテイメントです。
「まちがいさがし」の絵をチョキチョキ切り取って2枚を重ねてパラパラマンガを見るときのように素早く交代させると、2枚の内どこが違うかすぐにわかってしまうのですが、それは、そうすることによって2枚の絵の違いが「動き」として目に届くようになるからです。
それに、そもそも私たちの目は光があるだけでは見ることができません。実は、網膜がとらえているのは、単なる明るさじゃなくて明るさの差、すなわち、コントラストなのです。フォトショップではおなじみの「エッジ検出」をするのが網膜なんですね。

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ビジュアル表現との関連性

wowlab
え!エッジ検出ですか。ということは今回我々が作る「工場と遊園地」のシステムと似てますね。今回私たちはカメラで撮影した映像のエッジ検出をして、そのエッジと映像の中のオブジェクトを衝突計算させているんです。

茅原
そうなんですか。面白いですね。その場合、エッジ検出は、カメラの中のオブジェクトを切り出すためにしているわけでしょう?実は、網膜がやろうとしているのも同じことらしいんですね。というのも、あるオブジェクトと背景の間にはたいていコントラストが存在することが多いので、 エッジ検出すればオブジェクトのだいたいの輪郭がわかるからです。もちろんエッジ検出だけじゃだめだからコンピュータビジョンがなかなかうまくいかないんですが・・でも、入り口のところでいきなりエッジ検出から始めていることから逆に、私たちの目が世界からオブジェクトを抽出することを目的にしたシステムであろうことが推測できます。

丸い図形に上から下に、白から黒のグラデーションを塗るとしましょう。そうすると丸い図形は急に立体的に見えてきます。実際には平面ですが、なぜか盛り上がって見えるわけです。逆に上から下にかけて黒から白のグラデーションを塗ると、凹んだ図形に見えるはずです。

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wowlab
我々はグラフィックデザインをするときに、そのような技法を度々使います。ユーザーインターフェイスのビジュアルデザインだと、特にシェーディングや影を使って、情報の優先度などを表現しすることが多いですね。

茅原
はい。表現としてはとてもよく目にするものだと思いますし、このように見えることもあまり不思議に思われることはないと思います。でも、なぜグラデーションだけで立体感が得られるのか?あくまで2次元のグラデーションに過ぎないのに。そのように考えると、脳の中に「光源は上にある」という前提を持っていて、その前提を使って解釈していると考えざるを得なくなってきます。

wowlab
我々は自然にその前提を利用していたという事ですね。

茅原
網膜に映った像は2次元です。この平面的なデータから完全な3次元世界を構成するのは、原理的に不可能なんです。一次元足りませんから。皆さんもコンピューターグラフィックスに触れられているから分かると思うのですが、3面図から完全な立体を再現するのは無理ですよね。ですから何かを見ているとき脳は、未知数が2つある一つの方程式のように、解が一意に定まらない計算問題を解いていると考えられるのです。

wowlab
ではどうやって脳は答えを導きだしているんでしょうか?勘のようなもの?

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視覚世界は安定していない

茅原
「原理的には解けない」ということは、コンピューターがいくら高速に大容量になっても決して解けない、ということを意味しています。つまり、難問なんじゃなくて、解が一つに決まらないということなんです。解が一つに決まらない、というのは視覚になぞらえていうと、視覚世界が安定しないということです。同じものがああ見えたりこう見えたりする。でも、私たちの視覚世界は安定していますね。先ほどのグラデーションはいくら頭で2次元のグラデーションに過ぎないということがわかっていてもかなり頑固に立体に見えてしまいます。ということは、脳ならではの独自の解法や計算方法があるはずだということになります。そのような独自の解法の一つが、先ほども触れた脳の中の「前提」です。解が一つに決まらない問題に対して、脳は前提や仮説を当てはめて、とり得る解の範囲を狭めていくということをしているということが考えられています。

wowlab
その前提というのは、人間共通のものなんですか。それとも個人個人でばらつきがあるんでしょうか。例えば経験の異なる人間では前提が異なってくるとか。

茅原
そこがとても面白いところなんですが、私たちの「見ること」のかなりの部分は共通のスペックでとらえることが出来ます。その共通性が、どの程度生得的なもので、どの程度経験によるものなのかは、まだはっきりとは分かっていませんが、でも、「見る」ために欠かせない「前提」がある程度共通なことが、私たちの間の了解可能性を支えている、とも言えると思います。

wowlab
ということは良いデザインというのは、そうした前提をうまく利用したものなのかもしれませんね。普遍的なアフォーダンスを感じさせるようなもの。もしくは逆に前提を逆手にとって、脳の認識を裏切るような表現のような。

茅原
それはまさに皆さんがお仕事の中で日常的に探っておられることですよね。実は、お仕事や作品を拝見して、我々がやっていることと同じだ!って、最初はびっくりしたんです。アプローチや表現が違うだけでやろうとしていることは同じだなぁと。我々は実験という分析的なやりかたでどんな前提が機能しようとしているか調べているけれど、wowlabさんは「そのように見える」グラフィックスや映像を直接つくってみることで分かろうとしている。

wowlab
そうですね、どうやったら鉄の質感を表現できるかとか、写実的な表現のためにどんなテクニックが必要かとか、数多くのトライ&エラーを繰り返して、経験的に完成を導きだしていきます。高度な表現になればなるほど、調整の時間がとても必要になってきますね。

茅原
我々のアプローチでも、刺激のバリエーションを作り出してそれぞれに対する見え方や聞こえ方をもとに調べるという点は全く同じです。こうした手法的な類似点が生まれる背景には、やはりテクノロジーの進歩があると思うんですね。作品レベルの高次元のコンピューターグラフィックスをある程度リアルタイムに、しかもパラメトリックにコントロールできるようになったことが大きいのだと思います。

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記憶と時間

wowlab
たしかにコンピューターグラフィックスはここ数年でかなり進化したと思います。でも、まだまだ擬似的に現実世界をシミュレーションしているだけなので、本当に写実的な表現のためには、デザイナーの職人的な経験値が必要ですね。でもこの経験をパラメーター化出来れば認知科学的に意味のあるものになるかもしれませんね。

茅原
テクノロジーを媒介して私たちがこうして出会い、共通の言葉で話しあえることは本当に素晴らしいことだと思います。18世紀ヨーロッパ的なサイエンスとアートが混沌とした状況に私たちはすでに投げ込まれているのかもしれないし、そう思いたいです。だって、wowlabさんの作品からパラメータを抽出して論文に起こさなくても、作品が「洞察そのもの」を提示しているわけでしょう?極端な話、世界をもう一つ構築できれば、それは世界を理解したということだし、またそれが理解したことの表現にもなっているわけですよね。私たちは、テクノロジーがもたらす事態について、まだ全然評価できていないと思う。

wowlab
いつも疑問に思っている事があるんですが、人間というのは、見たものを全て記憶しているものなのでしょうか?例えばハードディスクのようなものが脳の中にあって、時間を指定して、その記憶を取り出すということが出来たりするんですか?

茅原
記憶をためておくためだけのストレージのようなものは脳にはないんです。ではどうやって記憶しているかというと、脳は自らを変化させることによってそれをしています。神経細胞同士を新たにつなげたり、既にあるつながり方を変えたりして。要するに回路の中に情報を埋め込んでいるんです。脳では記憶すべき情報が「ファイル」のような形では切り離されていません。

面白いのは私たちの時間の観念との関連で考えたときです。もし、脳に記憶されている情報がファイルのようなものだったら、木の年輪のような形で時間軸を表現することができますから、私たちの時間の観念に近い実体が脳の中にあることになる。でも、実際脳がやっているのはそうじゃなくて、自分をどんどん変化させることのなかに情報を埋め込んでいる。そこには時々刻々の変化の結果としての「今」があるだけで、どこを探しても時間軸は見いだせないのです。

wowlab
それは本当に不思議ですね。ということは我々は時間をどのように認識しているんでしょうか。たまに不安になるんですけど、今この瞬間の記憶はどこに行くのだろうと。どんどん忘れていく不安。溶け出して流れていくような。

茅原
「時間軸」の実体はどこにもありませんから、霧の中から現れて霧の中に消えていく、というのが認識される時間の本当の姿でしょうね。ただ、一方で、確かに私たちは過去のことを憶えていますので、時々刻々の入力のうち何がどのようにして脳に書き込まれ、またそれらにどのようにタイムスタンプがおされて、時間軸上に配置されているのかは、本当に興味深いことです。それが「私」を構成しているものの全てですもんね。

時々刻々の入力がどのていど書き込まれるか、についてはいろんな見方があって、意識に登らなかった情報も保持されていることを示す事実もあるんですが、でも、今この瞬間に入力される情報は、きちんとカウントするとものすごい膨大なものになりますので、取捨選択はどうしても必要です。実際、脳の中には記憶のゲートとして機能している部分があることが分かっています。その部分で記憶するかしないかを決めているわけですね。

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海馬と扁桃体

wowlab
ゲートがある!そのゲートを開けられなければ、記憶に残らないということですよね。仕事をする上でも作品を作る上でも、そのゲートを開ける鍵はかなり重要になってきますね。

茅原
そのゲートは脳の深いところにある海馬と扁桃体と呼ばれる部分が担っていると考えられています。海馬はここですね(脳の模型を指差しながら)。直径2センチ、長さ5センチぐらいの大きな組織です。脳細胞というのは基本的には減っていくものなんですが、この海馬だけは細胞が入れ替わります。数ヶ月で新しいものに入れ替わるのです。詳しい説明はまた後日機会があればお話ししますが、ほとんど全ての感覚の入力が、この海馬を通っています。

wowlab
どの段階で海馬を通るのでしょうか?最初の段階ですか?

茅原
各モダリティで一通りの処理を終えてからこの海馬を通過する回路になっているようです。当初は、海馬が損傷すると記憶することが出来なくなることから、海馬が記憶のためのハードディスクに相当する部分だろうと思われていたこともあったのですが、研究が進むことでゲートであるということが分かってきた。

wowlab
海馬が壊れると、ゲートが開かなくなる?

茅原
ゲートは閉じたままになるので、記憶できなくなります。事実、海馬損傷の患者さんに典型的に見られるのは、既にある記憶が失われることではなく、新しい情報が記憶できなくなる、という症状であることが知られています。

wowlab
どうやったらそのゲートを開けられるんですか?!

茅原
結論を急ぎますね(笑)。まだはっきり分かっていない部分も多いのですが、記扁桃体という、もうひとつの部分が関与していることが分かり始めています。海馬に比べるとずっと小さな組織なんですが、これは感情を司っているんです。この扁桃体が海馬と密接に連絡を取り合っていることが分かったんです。どうも扁桃体が海馬のゲートの開閉を制御しているらしいんですね。

wowlab
ということは感情的な要素が、記憶のゲートを開ける鍵になっているかもしれないということでしょうか?感動したこととか、悲しいこととか。

茅原
極端にいうと、生態学的に「快」の状態のときにゲートが開くということですね。ここでいう快というのは、生存にとって有益であるものということです。たとえば近づくべきだとか、近づくべきではないという、ある種の行動を制御する信号のようなもの。おそらくこれが感情の一番プリミティブなものだと思います。ですから快楽的なことだけを記憶するのではなく、恐怖体験のようなものも記憶に残りやすいといえるかもしれません。

wowlab
美味しいものも記憶に残るけど、スパルタ的な特訓も記憶に残ると・・。

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時間差を計測する聴覚システム

茅原
もう一つ面白いのは、実は扁桃体自身も記憶のゲートなんです。記憶のもう一つの通り道ですね。この扁桃体を通って記憶されるものの一つに「印象」があります。たとえば、人にあった時などに感じる、この人いい人だな、というような感覚的な印象は、扁桃体を通って記憶されているんですね。楽しかった印象は憶えているんだけど内容は憶えていない、という体験を誰でも一度はしたことがある思いますが、ああいうことが起こるのは、内容的な記憶と感情的な記憶が別回路なことの一つの証拠ですよね。

wowlab
上下関係でいうと、海馬と扁桃体ではどちらが上なんですか?

茅原
2つの組織の支配関係はまだ良くわかっていないんですが、海馬が扁桃体の反応を参照しているのは確かのようです。ですから好きこそのものの上手なれ、というのはまさにその通りだと思います。

wowlab
好きだったり興味のあるものに関しては、扁桃体がどんどん反応して、海馬のゲートも開きやすくなると。ということは表現に関していうと、まずは好きになってもらったり、興味を持ってもらう表現を作らなければならないですね。そうした印象をデザインしてはじめて記憶に残してもらえるということですから。

wowlab
音に関しては認知科学的にどんなトピックスがあるのでしょうか?

茅原
音に関しても様々な研究が行われています。音の高さやリズム、大きさの知覚など音楽でおなじみの特性はもちろん、音源定位など空間的な特性も検討されています。例えば、音源が右側にあると、音は右耳の方に少しだけ早く届くために左右の耳で時間差が生じます。この時間差は本当に微妙なものなのですが、聴覚システムはこのズレを高精度に計測して、そのことで音源が右側にあることを知ったり残響成分をキャンセルしたりしています。

脳の奥の上オリーブ複合体っていう部分にある、「ディレイライン」(図1)と呼ばれる回路が時間差を計測しているんですが、人間の身体の中では一番時間精度の高い部分で、百万分の一秒のレベルで処理が行われています。蝸牛では異なる場所で異なる周波数を符号化するなど、脳は空間をうまくつかって処理をしているんですが、その大変美しい例ですね。

図1

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補完する脳

wowlab
では今聞いている声も、無意識のうちに左右の時間差が常に計算されているということですね。それにしても百万分の一秒の単位というのはすごい。

茅原
音は映像と違ってすぐ消えちゃいますから、それに対応するために全体として処理は視覚より高速です。面白いことに皮質に入るまえの前処理部分も視覚より充実しているんです。専用のオンラインDSPが並んでいるイメージですが、先ほどの上オリーブ複合体もその一つです。

さらに、音の高さや位置を計算するまえに、やはり聴覚も、1次元の波形から未知の音源を切り出すという「解けない問題」を解かなくてはなりません。聴覚の場合は視覚よりも次元が少ないですから問題はさらにやっかいです。

そのような問題を解くときに聴覚がとっている作戦を示す面白い現象があります。「ピー」という音(正弦波)の一部を10分の1秒くらい、一瞬だけ「ザッ」という別の音(ノイズ)に置き換えます。その配置通りだと、「ピー、ザッ、ピー」と聞こえなければならないんですが、実際は、「ピー」という音が「ザッ」というノイズが鳴っているときにも聞こえます。ノイズの背後でずっと「ピー」が鳴り続けるんです。音声のようなもっと複雑な音の一部が「ザッ」で置き換えられても同じようなことが起こることも分かっています。

wowlab
実際は聞こえていないけど、聞こえていると見なすということですよね。ということは、音をそのまま聞いているというよりも、常に予測しながら聞いているということなんですか?

茅原
まさにその通りです。でも時間をさかのぼっても起きる現象なので、「補完」と呼んだ方がいいかもしれません。このような「補完」的な処理は、時間次元に限らず、空間でも他の次元でも、脳のあらゆるところでたくさん行われています。

wowlab
脳の話を聞いていると、補完という言葉がたくさん出てきますね。意外と適当に処理しているということなんでしょうか?

茅原
補完だらけですし、線形性という観点で見ればむちゃくちゃ適当だと思います。「脳はすごい」というのが一般のイメージですが、量的にみれば実はそんなにたいした機械じゃなくて、だから少ない処理資源をいかにうまく運用していくか、ということが常に課題なんですね。そういった意味では、常にサボろうとしているとも言えますし、先ほどのグラデーションがどうしても立体的に見えてしまうように、レッテル貼りしてすませてしまうような、保守的で頑固で偏見に満ちた一面も持っていると思います。

wowlab
いつも気になるのですが、例えば今この瞬間の手の位置とか、足の位置って意識していませんよね。無意識に体を動かしている。私たちは無意識に囲まれているっていうことなんでしょうか。

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無意識の領域は非常に広大

茅原
音からちょっと離れますが、人間の記憶には処理のために一時的に情報を保持しておく、コンピュータで言うところのメモリに相当するものがあります。「作動記憶」と呼ばれるこの記憶の容量は、全く規則性のない数字を覚えられる桁数で測定すると、だいたい7つ分ぐらいしかないんです。市外局番抜きの電話番号を覚えて電話をかけるくらいがせいぜい、ということですね。

wowlab
意外と少ないですね・・。

茅原
実はこれは私たちの「意識」の容量ともみなせるんです。意識的に操作できるのは高々7つだけということです。一方、心臓を動かしたり、呼吸をしたり、手や足を動かす軌道計算をしたり、生きていくためにしなければならない処理は無数にあって、とても7つじゃまかなえませんから、そのことから逆に、脳の情報処理のほとんどは無意識的なものであることが推測できます。知覚にしたって、グラデーションから物体形状を計算したり、ノイズの背後に音を補間したりする過程は全然意識できないでしょう?ですから、単に「見る」ということについても無意識の領域は非常に広大なものだと思います。

wowlab
ということは人生の中でも意識しているというのは、とても少ないという事ですね。

茅原
少ないと思いますよ。それに先ほども話しましたが、脳は常にサボろうとしますから、ちょっと習熟すると無意識処理にまわそうとするんです。例えば、車の運転も慣れると助手席の人とおしゃべりできるようになるでしょう?あれは、運転を無意識化することで意識リソースをおしゃべりのために解放できるからなんですね。スキルの習得というのは、無意識化・自動化していくプロセスでもあるんだと思います。

ただ自動化が進むと、意識的なコントロールが出来なくなってくる。ある種の怠惰さというか凡庸さの中に追いやられてしまうんですね。一番最初の話に戻ってしまうのですが、「見る」という行為についてもまさにそうです。見ることを支える処理は完全に無意識化・自動化されているから、その素晴らしさに気付けなくなっている。

でも、「見える」というのは、それだけで感動的な事なんです。知覚心理学はそうしたことに気付かせてくれる学問なんだし、そのことを表現していくのが社会的な役割なんじゃないか、と私は考えています。

wowlab
人間が人間たりえる事の素晴らしさを、科学的なアプローチであらわにする学問なのかもしれませんね。話は尽きないのですが、どうやら時間が来てしまったようです。今日は興味深いお話をありがとうございました。また引き続き情報交換が出来ればと思います。

茅原
こちらこそ、ありがとうございました。